三線教室 ONLINE 東京 by 豊岡マッシー

宮古生。首里育。東京在住。イチャリバーズ 三線 二胡 歌 絵画アーティスト 三線とオンライン教室のブログ YOUTUBE配信毎日やってます

熊本節 工工四

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軍人節はとても美しい曲ですね
自分も改めて民謡や工工四を配信してきて
好きになった曲ですね
ところでこの歌には「ちらし」があって
「ちらし」って静かな曲をやった後に続けて演奏する
テンポの速い歌のことですが
軍人節は熊本節が「ちらし」になっています
沖縄民謡の父。普久原朝喜さんの作品。
この方って沖縄民謡界きっての天才なんじゃないだろうか
これまた独特のリズム感。素晴らしい曲です
軍人節と同じように
「出征出船の唄」という別タイトルがついています。
歌詞は標準語よりというか訳がなくてもわかる内容です。

戦争にまきこまれていく夫婦の悲しみがストレートに歌われていますね
戦中の歌。戦世の唄です


男)
我身や熊本ぬ城内ぬ努み
無蔵や母親ぬ御側勤み

女)
我身や母親ぬ孝事方すむぬ 
里や国ぬ為尽くちたぼり

男)
三年ぬ努み終(しま)ち来(ちゅ)る間や
手本立てぃる事願てぃ呉りよ 

男女)
那覇港来りば寂しさや 無蔵よ 里前 
袖濡らす涙忘してたぼな 

 

ところで熊本城のお勤めとはなんだろう。
調べたら熊本城に日本軍の司令部、病院、弾薬庫などがあったそうです。
そこに行くということだったんですね。


歌えば当時の悲しみが蘇ってきます
こういう歌がきちんと継承されていることは素晴らしい
沖縄では今でも過重な米軍基地という戦争の残り火が燃えている状態
それが消えて本当の沖縄に戻る日が来て欲しいと願いますね
歌うことでその思いを継承していきます

これは長間たかおさんのライブから音を拾いましたが
熊本節で指笛吹いている人がいて
ここは指笛は違うだろうと思いましたが
ある程度テンポのある歌なので
戦争の歌とは気づかなかったのでしょう

タカラぬシマ(沖縄復帰50周年オリジナル曲)工工四




沖縄への郷土愛
マッシーならではの島人ぬ宝だしヒヤミカチ節です
タカラぬシマという言葉はヒヤミカチ節の「宝島でむぬ」の心を受け継ぐものです
「世界に知らさ」も引用しました

タカラぬシマ

時は1972(ナインティセブンティトゥ)(復帰の年)
アメリカ世から大和世
お金も変わり道も変わり(ドルから円、730)

南の小さな島から
カンムリワシが飛び立ち
誇り取り戻したあの日(具志堅用高

風に揺れてる赤花
太鼓三線の響き
首里の歌姫が舞い降りる(安室奈美恵

でもいつも傷ついてる
フェンスに咲いた花よ(基地のフェンスにつけられた抗議のリボン)
ただこの島を守りたい

ウチナー 我した島 
大切なこの島
世界に知らそう宝ぬ島(ヒヤミカチ節)

テレビから流れてくる
懐かしいウチナーグチ
笑顔あふれる島の人よ(NHKちゅらさん

目を閉じれば思い出す
肌をつきさす太陽
ウージの森が揺れるざわめき(BOOMの島唄

いつしか島も変わり
憧れのパラダイス
戦世ぬ傷跡も薄れ(戦争の記憶)

でもいつも泣いている
埋められる美ら海よ(辺野古
ただこの島を 抱きしめたい

ウチナー 我した島 
大切な この島
世界に 知らそう タカラぬシマ

台風で 壊れても
御城(ウグシク)が 燃えても(首里城焼失)
受け継ぎ 伝える 
ただひとつの タカラぬシマ

芭蕉布 工工四 ビギナー

作曲 普久原恒勇 作詞 吉川安一  
1965年 
唄はクララ新川さん。
彼女ははハワイ沖縄系3世ですが
沖縄に来て嘉手納基地でバイトをしながら日本語を勉強していた。
彼女のデモテープに感銘を受けた普久原が作曲
フォスターのようなメロディ
アメリカと沖縄をミックスしたような美しい三拍子の曲になった

クララさんはその後歯科医と結婚。カリフォルニアで家庭を持ちますが
海難事故で一家全員亡くなってしまう
37歳でした。

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2/7「芭蕉布」web三線教室(工工四)


海の青さに 空の青
南の風に 緑葉の
芭蕉は情に 手を招く
常夏の国 我した島 沖縄

首里の古城の 石畳
昔を偲ぶ かたほとり
実れる芭蕉 熟れていた
緑葉の下 我した島沖縄

今は昔の首里天我那志 (すいてぃんじゃなし)首里国王様
唐ヲゥー紡ぎ はたを織り
上納捧げた 芭蕉布
浅地紺地の 我した島沖縄


芭蕉布芭蕉の茎から繊維をとって糸を結び織った布です
庶民の着物で首里王朝への租税でした 

今では大宜味村喜如嘉(おおぎみそんきじょか)が芭蕉布の里になっています。

ヲゥーというのがなんだろうとずっと謎だったんですが
とりあえず読み方は(Wu)ですね。
「わ」行のことなんですが
わワ(Wa) ゐヰ(Wi) ゑヱ(We) をヲ(Wo)は文字がありますが
(Wu)が文字がないので(ヲゥ)と表記したのでしょう

ヲゥは植物繊維の糸のことで ブーだったりプーだったりします
浅地紺地とは藍染の染め具合なのですがこれが愛情の深さを表現しています

あなたに/モンゴル800(工工四)

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作曲はMONGOL800
作詞は上江洌 清作

うえずの漢字が上江洲でないんですね。知らなかった
間違えないようにしないと〜

名曲ですね!
ウチナーンチュが作った楽曲の中でも最高傑作といっていいですね
シンプルなコードの代わりに曲の構成が凝ってます
「腕の中」のところは鳥肌ですね
サビはいわずもがな
モンパチを取り上げるならやっぱりこれは外せないですね

ただ若さゆえなのか、、一番と二番でメロディが違うとか
同じ言葉が重複してるとか
工工四をつくりながら気になった点はありますけど


原曲に近いノリでカバーするなら三線もコード弾きになってしまうし
メロディを追いながらシャッフルリズムで沖縄っぽくすると
どうもコミカルな感じになりがち
ということでレゲエのリズム感でまとめてみました
コードとメロディを半々なぞるような三線になってます
沖縄リズムでもこの工工四でできますよ。
終わり方がずかしいね
「あなたに」を繰り返して終わる感じかな

あなたに

人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
あなた疑う心恥じて 信じましょう心から
流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
揺るがないもの ただ一つ
あなたへの思いは 変わらない

泣かないで愛しい人よ 悩める喜び感じよう
気がつけば悩んだ倍 あなたを大切に思う
ほら元どおり以上だよ
気がつけば もう僕の腕の中

あなたに逢いたくて 逢いたくて
あなたに逢いたくて 逢いたくて

眠れない夜 夢で逢えたら
考えすぎて眠れない夜
夢で逢えたら どこへ行こうか?
あなたがいれば どこでもいいよ

あなたに逢いたくて 逢いたくて
あなたに逢いたくて 逢いたくて

流れゆく日々 季節は変わる
花咲き散れば 元にもどるの
こんな世の中 誰を信じて
歩いてゆこう 手を取ってくれますか?

 

沖縄復帰50周年 ソング「タカラぬシマ」完成

タカラぬシマ(作詞作曲 歌演奏 映像)豊岡マッシー
完成しました。
復帰の5月15日までにアップできました。よかった。


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思いっきり沖縄のことを歌おうと思い
「ウチナー」っていうサビはだいぶ前から決まってましたが
沖縄本土50周年といっても喜ぶような沖縄の現状でもないし
どういう歌詞にすればいいのか悩みながらも、
それでも何か作らなければという思いで作りました。結果マッシーのここ10年くらいが凝縮されています。

タカラぬシマ 作詞作曲 豊岡マッシー 

時は1972 (復帰の年)
アメリカ世から大和世 
お金も変わり道も変わり(ドルから円、730で車は右から左へ)

南の小さな島から
カンムリワシが飛び立ち
誇り取り戻したあの日(具志堅用高

風に揺れてる赤花
太鼓三線の響き
首里の歌姫が舞い降りる(安室奈美恵

でもいつも傷ついてる
フェンスに咲いた花よ(基地のフェンスにつけられた抗議のリボン)
ただこの島を守りたい

ウチナー 我した島 
大切なこの島
世界に知らそう宝ぬ島(ヒヤミカチ節)

テレビから流れてくる
懐かしいウチナーグチ
笑顔あふれる島の人よ(NHKちゅらさん

目を閉じれば思い出す
肌をつきさす太陽
ウージの森が揺れるざわめき(BOOMの島唄

いつしか島も変わり
憧れのパラダイス
嵐世ぬ傷跡も薄れ(戦争の記憶)

でもいつも泣いている
埋められる美ら海よ(辺野古
ただこの島を 抱きしめたい

ウチナー 我した島 
大切な この島
世界に 知らそう タカラぬ島

台風で 壊れても
御城(ウグシク)が 燃えても(首里城焼失)
受け継ぎ 伝える 
ただひとつの 宝ぬ島

1972年の5/15日
アメリカ軍の施政下から日本になりました。
僕が4歳の時です。
全然覚えてないですが。

宮古島から那覇首里に引っ越したのが小学一年生の時
海洋博は1975年。
これは覚えてますね。
具志堅さんがチャンピオンになったのが1976年
これで勇気づけられたウチナーンチュは多かったはず。
世界一になれるんだ!っていう自信になったと思うよね
そして車が右から左に変わったのは1978年
730のキャンペーンは覚えてるよね。
未知との遭遇のポスターに似ているから
パクりだ〜とか思ってた(笑)
スターウオーズがやっていた年でもある。
そっちの方に夢中でしたね。

80年代はJALの沖縄キャンペーン
これの影響で沖縄のイメージがリゾートアイランドになった
今思うとこれは本当に大きな変化だったと思います
昔は沖縄旅行のメインは慰霊だったからね。

90年代とともに自分は東京に出てきます
このあたりからですよ
沖縄が俄然注目されてきた
ワールドミュージックの中で沖縄音楽もどんどんでてきた

坂本龍一さんががっつり取り入れていて
沖縄民謡がこんなにカッコ良くなるんだ!って衝撃でしたね
80年代はまだ民謡よりもオキナワンロックが有名だったからね

撮影場所
辺野古の浜、キャンプシュワブのフェンス、潟原干潟、ハンタン山のアコウ、瀬長島、ブセナ、ブルーシール首里石畳、弁才天堂、首里城、瀬名波ビーチ、渡口の浜、池袋西口、早稲田公会堂、かりゆし水族館、新原ビーチ、安和海岸、佐和田の浜、17エンド、名護58号線、成美教育文化会館