三線教室 ONLINE 東京 by 豊岡マッシー

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艦砲ぬ喰ぇー残さ 工工四

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作詞作曲の比嘉恒敏(ひがこうびん)さん。
大阪に住んでいたが大阪大空襲で妻と次男を失った。
実家の読谷村楚辺の父・母・長男・姉とその子どもたちは「対馬丸」で亡くなっている。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」という言葉は、戦後、読谷に戻ってきたときに親戚のオバーがつぶやいた言葉で、耳から離れなかったと言う。
艦砲射撃の食べ残しっていう意味です。


「艦砲ぬ喰ぇー残さ」web三線教室(工工四)


若さる時ね戦さぬ世 若さる花ん咲ちゆーさん
家ん元祖ん親兄弟ん 艦砲射撃ぬ的になてぃ
着る物 食え物むる無らん 蘇鉄ちゃー食でぃ暮らちゃんや
貴方ん我にん 汝ん我にん 艦砲ぬ喰ぇー残さー 

神ん仏ん頼ららん 畑や金網銭ならん
屋小や風ぬ うっとばち戦果担みて すびかってぃ
押っちぇー曳っちぇー弄ってぃ 肝や誠どやたしがやー

泥ぬ中から立ち上がてぃ 家庭求みてぃ妻とぅめてぃ
産子ん生まりてぃ 毎年産し次男 三男 ちんなんびー
哀りぬ中にん童達が 笑い声聞ち肝とぅめてぃ

平和なてぃから幾年か 子ぬ達んまぎさなてぃ居しが
射ーやんらったる 山猪ぬ我が子 思ゆる如に
潮水またと んでぃ思れー 夜ぬゆながた眼醒ゆさ

我親喰たるあぬ戦さ 我島喰たるあぬ艦砲
生まり変わてぃん忘らりゆみ誰があぬ様しー出じゃちゃら
恨でん悔やでん飽きじゃらん 子孫末代遺言さな


比嘉恒敏さんは再婚し子供が7人できた。
沖縄がベトナムへの発進基地だった1969年頃にこの曲を作った。
しかし1973年。米軍人の車に衝突され、妻と共に亡くなっている。

娘たち4人は「でいご娘」として活動していた。
1975年に残された娘たちは父の遺作『艦砲ぬ喰ぇーぬくさー』をレコーデイングした。


"艦砲ぬ喰ぇー残さー" 歌に込めた思い

カンプーサバチの食い残しという言葉があるそうだ。
カンプーは頭の上に髪を結わえること。琉球髷。サバチは櫛。
カンプーの頭を櫛で梳かして抜けなかった髪の毛のことだろうか。
艦砲射撃とカンプーサバチが結びついたのだろう


今でも艦砲射撃の跡を見ることができます。
なんと世界遺産斎場御嶽にある艦砲池。
艦砲弾でできた穴に水が溜まって池になっています。
こういうのが今でも残っているのがすごいですね