カンカラ三線でございます。
空き缶でできた三線です。
オモチャのような三線ですが。
実はこれに沖縄県民は救われたのです。
沖縄戦のすぐあと、沖縄の人々はどうしていたと思いますか。
実は全員が捕虜収容所に入れられています。
収容所というよりも難民キャンプのようなものでしょうか。
食べ物もろくにないような状態でなんとか命を繋いでいました。
栄養失調で抵抗力がなく病気で亡くなる人もいました
そこで基地建設などの軍作業をします。
作業着の背中にはPWと書かれています
「プリズナーオブウオー」
「捕虜」という意味ですね
そういう暮らしの中でカンカラ三線が生まれました
米軍から支給された缶詰を胴に。
ベッドの木枠などを棹に。
さて、弦はどうしたのでしょうか
なんとパラシュートの糸です。
パラシュートはよく落ちていたそうです。
洋服の生地に使われたりもしてたそうです。
そうやって作ったカンカラ三線。
芝居小屋のようなものを作って芸能大会も行われました
なちかしやウチナー 戦場になやい 世間御万人ぬ 流す涙
悲しいかな 沖縄よ 戦場になっていまい 世間万人の 流す涙よ
今でもこの「屋嘉節」を歌う時は当時を思い出して
軍作業着とカンカラ三線を使ったりします。
カンカラ三線でこの歌を歌えばこの当時の人々の心情が蘇ってきます。
沖縄の戦後、唄の復興はこのカンカラ三線から始まったのです。
そんな歴史があるので、今も沖縄でカンカラ三線は愛されているんですね。